二宮和也という魅力について

 

二宮さんは夜空みたいな人だと思う。
言い表そうとした当初は「深淵」だった。どこまでも暗くて、広くて、容積の分からない印象を強く持っていた。
けれど二宮さんを知れば知るほど、その内側にはいくつもの煌めきが内包されていた。だからこその「夜空」。
観測する場所、時間、空気の状況などで夜空にあるものはよく見えたり、見えなかったりする。でもそれは夜空が悪いのではなく、あくまで観測する立場の問題で。雲がかかっていようと、ネオンが瞬いていようと、夜空は変わらずずっとそこにある。
それが二宮さんにも言えるんじゃないかな、と思っている次第です。

二宮さんのアイドルとしての側面、役者としての側面、作詞者や作曲者としての側面、嵐の五分の一を担う側面。どれを見たいか。かわいい二宮さんと、カッコイイ二宮さん。優しい二宮さんと、ドライな二宮さん。二宮和也を通して、何を見たいか。それが分かれるからこそ、見える二宮さんも分かれるのだと思う。つまり、見る人の見たいものが見えてしまう気がしている。
知っている星座をすぐ見つけられるような感覚で。

発達したシナプスも夜空を彷彿とさせる。
例えば何年も前に教えてもらった「一富士二鷹三茄子」の続き「四扇、五煙草」を引っ張り出せるところ。
そういう、「知識としてもう一度取り出せる場所」があまりにも広いように感じる。そして「もう一度取り出すまで」のタイムラグがとても短い。
芸人さんの名前と顔、スタッフさんの名前と顔、役割、彼らの呼ばれ方、ネタ、活躍してる場所。それらを繋ぎ合わせて知り、覚えているのは空恐ろしいほどの蓄積量で。それこそ無限の星々に思えてならない。本人いわく記憶力がいいと言われる所以は「意図的にいらない記憶を消してるから」らしい。推し、パソコンですか?


そしてその蓄積量と合わせて、「許容量」も大きい。主に、感情の許容量。
二宮さんは、ほとんど怒らない。怒鳴らない。
どころか、誰かが怒っているとそれを宥める立場になることが多い。これの「誰かが怒っている」を嵐と、ベイストリスナーさんの二通りを紹介したい。

①宮城のコンサートで、機材がうまく動かないことに激怒する松本潤を宥める

これは怒るところなんです。なので潤くんが正しい。だって機材のトラブルとはいえ、それが限りなく「ない」ことを目指すのがスタッフさんなので。トラブルが起きないように起きないように、と慎重に事を進めているならともかく、どうやらそうではない。それは怒って当然。
ただ、これは「嵐」が怒るところなのにも関わらず(演出の総監督は潤くんなので、潤くんが誰よりも怒るのも正解)、二宮さんは宥める。二宮さん本人は「その怒りが見たくて風呂行ってない」とまで言ってたけど、なんなら一緒に怒ったっていい。でもそんなことはしない。
二宮さんは「誰かが怒っていること」に引っ張られることがほとんどない。一緒になって怒ること、怒っている人の影響でイライラすること、がない。むしろ逆に冷静になって怒っている人を宥めたり、怒られている人にその怒りの理由や「これから」どうしたらいいか、さらには怒った人の後々の感情についてフォローに回る。

 

冷え性であることが嫌で温活をするリスナーさんに「冷え性が可哀想」と言い放つ

意味わからなくないですか??(褒めてる)
そもそも「冷え性」とか「乾燥」、そういうものに対して二宮さんは抵抗しない。「乾燥なんて冬しかできないんだから」と謎理論をこねくり回し、手や肌の乾燥を「楽しんで」さえいる。
熱々のおでんで喉を焼いたり、服を着たままお風呂に入ったりのエピソードが聞ける二宮さんワールド全開の「BAY STORM」は関東圏では日曜22時、bayfmでお聞きいただけます、ぜひに。ちなみに二宮さんが好きな曲をかけてくれる上、その曲について語る「ニノフェス」なるものがたまに行われるようになりました。勝訴。


とまあ、とにかく二宮さんは「自分の感情がコントロールできない」ことが本当に少ない。
悲しすぎて泣いてしまう、怒りのあまり怒鳴ってしまう、ハイテンションになり過ぎて失敗してしまう、というところを見たことがない。どこまでもフラット。
けれど、二宮さんの感情はあまりにも深いところで所狭しとせめぎ合っていて、だけど外(表)に出ることがあまりないように思える。
「自分の感情」よりも「自分の感情の一部を見せるか、見せないか」に重きを置いている風に感じて。
その奥行の掴めなさは、すぐ近くに見えているのに実はとても遠い月までの距離みたいで。

「感情が読めない人」は少なくないけど、二宮さんは別に感情が読めない人というわけじゃない。
よく笑うし、ツッコミはキレキレだし、お芝居では涙だって似合う。
だからこそ何にだって(誰にだって)見える、と同時に二宮和也にしかできない表現の仕方がある。

私含め「見ている人に見える二宮和也」と「見ている人には見えない二宮和也」の間にはそれこそ数光年の距離があるんだろう。もう実在しない星が、今日も光だけは届いてるように。

あるようでない、ないようである。
近いようで遠い、遠いようで近い。

まるで禅問答みたいに、裏と表さえすべてが一体化した、ギャップで出来上がった存在。結果、私にとって二宮さんは「夜空みたいな人」となりました。


とても綺麗で、眩しくて、でも暗くて、そして深い。
二宮和也沼、深いです。